河井寛次郎記念館を訪ねて

河井寛次郎のことを知りたければ、本を読むよりも、彼の家に入った方が早い。

京都・五条坂をすこし上がったところに、その家はある。通りからは何も見えない。間口の狭い、控えめな構え。京都の町家がそうであるように、外には何も差し出さない。けれど一歩中に入ると、空間の尺度がまるで変わる。

太い自然木の梁が、曲がったまま頭上を渡っている。家の中心に囲炉裏が据えられ、吹き抜けが二階まで続いている。障子から柔らかい光が落ちて、磨き込まれた暗い床を照らす。建物というより、一つの大きな木工品の内側にいるような感覚がある。

河井寛次郎は一八九〇年、島根の大工の家に生まれた。東京で陶芸を科学として学び、一万回の釉薬実験を重ねたという。三十一歳のとき、中国や朝鮮の古い陶器を完璧に再現した個展を開き、一夜にして「天才」と呼ばれた。

そして、その賞賛から離れた。真似ることは完璧にできた。だからこそ、そこに自分がいないことに気づいた。「新しい自分を見たい。だから仕事をする」と、彼は書いている。

一九二四年、二つの出会いが彼を変えた。思想家の柳宗悦との出会い。そしてもう一つは、イギリスの素朴なスリップウェア — 名もない陶工が焼いた、田舎の日用品の皿だった。美しさは、稀少なもの、署名のあるものの中にあるのではない。毎日使う茶碗や、棚の上の壺、日々の暮らしのために普通の手が作った普通のものの中にある。彼はそう考えを改めた。

一九二六年、柳宗悦、濱田庄司とともに「民藝」を提唱した。

記念館の中では、ほとんどの作品が家具と一緒に置かれている。ガラスケースの中ではなく、実際に暮らしていた部屋の中に。椅子は河井自身が設計したもので、イギリスのウィンザーチェアの構造を、日本の体に合わせて作り直したような無垢の木の椅子。座面は藺草を編んである。ある腰掛けは、古い臼をそのまま座るものに変えたもの。長い年月、人の手に触れ続けた木の表面は、独特のぬくもりを帯びている。

台所には大きな竈がある。その上に注連縄が渡されている。煮炊きすること、食べること。それが彼にとっては小さな日々の儀式だった。「飯は熱いうちに食え」と、彼は好んで言ったそうだ。

この家には、外からは想像もつかないものが隠れている。

家を通り抜け、小さな中庭を渡ると、地面が裏山の斜面に向かって開けていく。そこに登り窯がある。八つの窯室を持つ大きな窯。一度に数百点を焼くことができる規模のもの。通りの控えめな間口からは、この大きさを想像することはできない。京都の町家の構造そのもの — 入口は慎ましく、奥へ奥へと深く続く。

河井は一九二〇年にこの窯を引き継ぎ、約半世紀にわたって火を入れ続けた。これほどの窯は一人では動かせない。焼成には何日も夜通しで薪をくべ続ける必要があり、多くの人の手が要った。かつて二十人ほどの陶工がこの斜面を共にしていたという。

一九七一年、河井の没後五年、京都市は市内での窯の使用を禁止した。この窯の火はそのとき消え、それ以来二度と入っていない。

晩年の河井は、陶芸から離れ、木彫りにのめりこんだ。手と顔。繰り返し彫ったのはこの二つだった。「手考足思」— 手で考え、足で思う。理論ではなく、作ることと動くことで世界を知る。彼はその言葉を本気で信じていた。

彼の言葉を木の板に刻み、家のあちこちに掛けた。家そのものが、彼の哲学をつぶやいているように感じられる。その一つに、こんな言葉がある。

この世は自分を探しに来たところ。

一九五六年、政府は河井に人間国宝の称号を贈ろうとした。彼は辞退した。文化勲章も、芸術院会員の席も断った。「私の仕事そのものが、いちばんの署名です」と、彼は言った。海外に名を売りに行くこともしなかった。だから西洋では今もほとんど知られていない。日本では、濱田庄司と並ぶ巨人であるにもかかわらず。

それは禁欲ではなかったようだ。知人たちによれば、彼は花びら一枚に見とれ、自分の手の動きに驚くような人だった。農民や田舎の人々を最も愛した。「この人たちがいなければ、世の中は成り立たない」と書いている。彼が好んで繰り返した言葉がある。暮らしが仕事、仕事が暮らし。その二つの間に、境目はなかった。

記念館は一九七三年に公開され、今もご遺族が管理されている。河井が暮らしていた時とほぼ同じ状態で残されている。椅子に座ることができる。冷たい窯の口に立つことができる。

五条坂から少し歩いたところに、静かにある。もし京都を訪れることがあれば、一度足を運んでみてほしい。見るのではなく、感じることを求める、数少ない場所の一つだと思う。

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